伝書鳩通信その

 現在、レース用に飼われているレース鳩は、ご存知のとおり、軍用鳩として発展したものです。また、新聞社においては、昭和40年前後までフィルムや記事の運搬に使用されていました。
 大ベテランのレースマンが、軍用鳩係であったり、新聞社の鳩係であったという話は、時折耳にしますが、このたび、徳島新聞社から特別に、下記の記事の転載許可をいただきました。


関東大震災で活

 背中や足に装着した管に原稿やフィルムを入れて取材先から飛ばすと、帰巣本能によって一心に社に帰り、通信の困難な地での取材に威力を発揮した伝書鳩(ばと)。今でも一部の新聞、通信社では鳩の彫刻を社屋の一角に飾ったり、はく製を保存したりしてその功績をたたえている。通信機関の発達していなかったこの時代、新聞にとって“小さな通信士”ともいえる伝書鳩には、本当にお世話になった。

 徳島毎日新聞でも軍用バトを譲り受け、取材などに利用した。ハトは編集局内に置かれた伝書バト部員が世話をした
 この伝書鳩、欧米の新聞社では一八三〇年代から活用していたが、日本では軍が最初に目をつけた。一八八六(明治十九)年一月二十九日付の普通新聞は、二十三日付の東京横浜毎日新聞の記事を転載して、次のように伝えている。

「使鳩法試験 同法は現今専ら欧州に行はれ、実地軍用等には欠くべからざるの便法たるよしなるが、本邦にては未だ其法を試みたる事を聞かず。然るに今般、軍用電信隊尉官某の発意にて、既に一昨日浅草公園地内の白鳩四五羽を府庁へ照会の上、同隊へ持ち返り先づ試にその尾をインキにて塗抹し目標(めじるし)として追放したりと。其全く現地へ帰戻(きれい)するの好果を得バ、不日又横浜にて之れを試みる筈なりと云ふ」


東京朝日が初め

 また九一年十月十三日付東京日日新聞は、イギリスの新聞が伝えるところとして、イーブニング・デスパッチ新聞が「年来数多の鳩を馴養し、巧に之れを探訪(取材のこと)用に供」している様子を紹介している。この記事を参考にしたのかどうかはわからないが、日本の新聞社で初めて鳩を飼い始めたのは東京朝日新聞社。朝日新聞社史によると九三年一月からで、通信用に使ったのは九五年六月二十日、韓国から井上馨公使が帰国した際が初めてだった。

 伝書鳩が大活躍したのは一九二三(大正十三)年九月の関東大震災の時。交通・通信機関が壊滅状態の中、陸軍では通信文や写真の搬送に利用して成果を上げた。

 新聞社で鳩が活躍するのはこれ以後で、二四年に東京朝日が軍用鳩の払い下げを受けて本格的に利用を始めて、各社もそれを見習った。徳島毎日新聞でも昭和初年に第十一師団から鳩を譲り受け、編集局内に「伝書鳩部」を置き、飼育、訓練を始めた。社内案内パンフレットによると、三三(昭和八)年十一月現在で、二十二羽飼育していた

 大正九年に同社に入り、記者をしていた久米惣七(故人)は「県外での取材にはよく鳩を連れていった。うまくゆけば一時間六十キロ程度の速さで飛ぶが、当日帰らなかったり、行方不明になる鳩もあった」という。

電話発達で姿消

 また徳島毎日では伝書鳩競翔会をたびたび主催。自社の鳩も出場させ優勝したこともある。三九年六月には朝鮮−徳島間で開催しようとしたが、直前になって「優秀鳩を失踪させてはならぬ」との軍の要請で中止になった。四一年三月五日の同紙によると、電信電話破壊といった有事に備えて、近く「国防鳩隊」が発足すると伝えている。

 伝書鳩は戦後も新聞社で活躍、五三年には四百キロという最長通信の記録を達成したが、電信電話の発達で六五年一月、毎日新聞を最後に姿を消した。

徳島毎日新聞でも軍用バトを譲り受け、取材などに利用した。ハトは編集局
内に置かれた伝書バト部員が世話をした

徳島新聞社提供

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