伝書鳩通信その

伝書鳩通信その1に続き、その2を掲載します

 この記事は、週間BEACON」というアマチュア無線のサイトにご協力をいた
だき、記事転載の許可をいただきました。


第2話 電波前史その2 〜激動期支えた「空の連絡員」〜

 東京の「有楽町マリオン」の14階、朝日新聞記念会館に伝書鳩の記念碑(朝倉響子作)がある。羽を休めようとするブロンズの鳩が2羽、その足に通信筒、背に通信バンド。碑文に、こんな言葉が刻まれている。

 「このハトが、いまニュースを運んできた・・・・」

 ブロンズの鳩は、朝日の「空の連絡員」だった。「井上馨公使、韓国から帰国」という記事を品川から運んだのが、わが国で最初の伝書鳩による新聞通信と記録されている。明治28年(1895年)6月20日のことである。

 日清戦争が始まっていた。続いて日露戦争、第1次世界大戦、太平洋戦争そして敗戦、廃墟からの復興−−。暗くて長い激動の時代に、鳩たちは報道の第一線で記者やカメラマンを支え続けた。山を越え、海を渡り、ときには猛禽に襲われ、激しい弾雨までくぐってニュースを運んだ。健気なその羽ばたきのあとを、たどってみよう。

 最初の大手柄は明治30年4月22日、八王子の大火のときだった。午後3時40分に出火。北西の強風にあおられて、わずか4時間足らずで全所帯の6割を焼き尽くした。全焼3104戸、被災者1万人、死者40人、負傷者60人と記録されている。 東京からも煙が見えた。探訪さんが駆け出したが、電報以外に通信手段のない当時、50キロ足らずの八王子はとてつもなく遠い町だった。連絡は来ない。欄外に「昨日八王子町に大火あり」とだけ入れて、朝刊の印刷は始まった。焼け残った鉄道電信でやっと第1報が届いたのは、23日の午前2時34分だった。

 「郵便電信局、警察署、収税署、町役場、郡役所、小学校、36国立、鴻通、武蔵の各銀行を焼き払いて、劇場清水座、関谷座等を烏有に帰し・・・・」

この記事は夕刊の特ダネになった。だが、簡単すぎる。「よしっ、鳩を飛ばそう」。探訪員河野玄隆が23日朝、3羽の鳩と上野駅に急いだ。河野の回想が残っている。

 「鳩はふろしきに包み、穴を3つあけて頭を出して腰にぶらさげ、羽織のすそで隠して汽車に乗った。八王子に着いたのは夕方、焼け野原にちらちらするローソクの灯に近寄ると、焼死人の番をしていた・・・・ 横倒しのタンクで、鳩をかかえて明け方までまどろんだ」

 「半焼けの憲兵屯所に警察の連中もいた。材料を仕入れ、停車場で薄様紙に原稿を書き、管に収め鳩の脚に結びつけ・・・・ 最初の一羽を放したが、屋根に羽根を休めてアルミ管をつついている。いまいましいが仕方がない。第2の鳩にきっと社へ帰るんだよと語りかけて、ポイと放した。ぐるぐる回って高くのぼり、東京の方に矢のように飛び去った」

 「3番目は、あべこべに西へ行く。しまったと見ているとグルリと方向を転換し、恐ろしく疾い速力で東京めざして飛んで行く。屋根に鎮座した鳩も淋しくなったのか、やっと舞い上がった・・・・ また取材して翌朝出発、新宿に着いて朝日を買って見ると、鳩に託した通信が載っていた。目頭が熱くなった」

当時の紙面を見ると、25日付朝刊の3面は、焼死者の氏名、土蔵消失202戸、内務大臣視察、電信復旧工事など、41項目もの大火の記事で埋まっている。「奸商多し」などと、東京からクツやパン、団子を売りにきた者が暴利をむさぼっている、という告発記事まである。事件現場からの初の遠距離通信も、こうして見事な成功を収めた

 昭和2年(1927年)、大阪朝日も海軍時代に鳩術を学んだ鈴木兼吉を招いて、伝書鳩通信に力を入れた。翌年の夏、第14回全国中等学校優勝野球大会で、鳩たちは初めて甲子園を飛んだ。当時の甲子園からの通信手段は、電話だけ。写真などは阪神電車で大阪・梅田へ、さらに市電か徒歩で新聞社までと、人手に頼る以外に方法はなかった。

 鈴木は、新兵器を準備していた。写真を入れて鳩に背負わせる筒だった。甲
子園から大阪朝日まで15キロ足らず、鳩は軽々と一気に飛んだ。8日間の大会中に、写真だけでなくマンガまで、実に160回も運んだのである。

 後日談がある。人手と鳩の輸送時間はどれほど違うのか、大会中に調べた記者がいた。その統計によると、平均して人手は1時間20分、鳩は驚くなかれ12分。「頼りになる通信員」を証明した伝書鳩は以後、羽を休める暇がなくなった。

 昭和12年(1937年)7月、廬溝橋事件。また戦争が始まった。中国大陸の戦場は北京から上海、南京へと広がり、10月に朝日の従軍特派員は122人、連絡員も30人を数えた。鈴木もその一人だった。

 大阪から46羽の鳩とともに上海に着いた鈴木は、他社の特派員の裏をかいて、軍用鳩との連携作戦をはじめた。毎晩、近くの陸戦隊本部から20羽の軍用鳩を借り、記者やカメラマンに随行する連絡員に持たせた。数時間後に軍用鳩は、記事や写真を抱いて陸戦隊本部に帰る。すかさず朝日の鳩に移して放す。数分後に臨時支局に届く。海軍時代の経験と人脈を生かした鈴木の作戦は、数々の特ダネに結びついた。
 連携作戦は半月足らずで終わり、鈴木は帰国した。砲声とどろく異国の地で、鳩も人も疲れ果てたからである。ライバル社の30羽の鳩は、黄浦江の彼方へ消えて帰らなかった。攻撃を受けた陸戦隊本部では、迫撃砲弾が鳩小屋を直撃して30数羽が犠牲になった。 同13年4月、国家総動員法公布。戦線はさらに武漢へ漢口へと広がった。全国の新聞や通信、出版社が動員した報道関係者は約2000人と記録されている。しかし「空の連絡員」としてその人たちを支えたはずの、多くの鳩たちの記録は見つからなかった。
 ブロンズ像の記念碑が、有楽町の旧朝日新聞社屋上の鳩小屋跡に建ったのは、昭和37年(1962年)6月だった。新聞通信の主力はすでに電波に移り始め、約70年にわたる伝書鳩の時代は終わっていた。碑文は、こう締めくくっている。

 「いま、その任務を果たしたいじらしいハト達をたたえ、この碑をつくる」記念碑は、鳩たちの「鎮魂の碑」だったのである。

◇参考資料・文献◇朝日新聞記事、「朝日新聞社史」(朝日新聞社)、「人・鳩・電子」(朝日新聞大阪本社旧連絡部編)、鈴木兼吉著「鳩とともに三十六年」
週間BEACON」提供

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